旧国鉄篠ノ井線廃線敷トレッキングコースを歩きにきた時訪れた神社の記録です。
潮神明宮は、平安時代末から鎌倉時代に川手地方が伊勢神宮の御厨(みくりゃと読む)(庄園)になったころに創建されたものと推定されているようです。
「みくりゃ」とは「御厨(みくりや)」の略で、古代から中世にかけて使われた用語です。「御厨」は「御」(神の)+「厨」(台所)という意味で、神社で神饌(神に供える食物)を調理する場所を指します。特に伊勢神宮や賀茂神社などの大きな神社において、神饌を用意するための屋舎や領地を意味します。
また平安時代以降、御厨は神社が持つ荘園(領地)としての役割も担い、特産品を納める地域が増えていきました。このため、御厨は地名や地籍としても現代に残っています。
例えば、静岡県や長野県、群馬県などに「御厨」と名のつく地名が多く見られます。
戦国時代には麻績神明宮の神主が来て神事を行っている記録もあり麻績神明宮との関係は特に深く、潮周辺が麻績神厨の一部であった可能性があるとのこと。
本殿は、正面三間側面二間、切妻造で茅葺屋根をトタンで覆っている。
棟に千木二組、鰹魚木六本を置き、妻側には、棟持柱(むねもち)、鞭掛け(むちかけ)があり、きす組を妻飾りに用いるなど、神明造の特徴が良く表れている。
切妻造(きりづまづくり)とは、日本の伝統的な屋根形式の一つ。
屋根が2つの斜面から成り、棟(むね)から左右に傾斜する形状を特徴としています。
この形式は「切妻」と呼ばれることもあり、最も一般的な屋根形状の一つです。
シンプルな構造: 切妻造は、二方向に傾斜する屋根を持つシンプルな構造です。これにより、雨水が効率よく流れるため、耐久性が高まります。
元禄一年(1688年)火災により焼失後残されている棟札から、明和八年(1770年)に越後の出雲崎の大工小黒和田七によって造られたものと思われ、その後、伊勢神宮の20年に一度の遷宮にならって、ほぼ10~20年おきに屋根の葺き替えや、修理が行われているそうです。
この付近では大町市の仁科神明宮本殿が、現存する最古の神明造の建物で国宝指定となっています。
※神社の案内看板から引用。
神楽殿だろうか。立派である。
なんだか小学生時代の夏休みに見た景色感がすごい。実際にはこんな景色見たことないのに。
なんだか懐かしい感じがする。
壁からところどころ光が漏れ出ている。
レトロオーディオ。地域のお祭りなどで活躍してそうな雰囲気。
中には柴舟の一部と思われるパーツを発見した。
潮神明宮(うしおしんめいぐう)では、毎年5月4日と5日に例大祭が行われ、その中で「柴舟(しばふね)」と呼ばれる伝統的な行事が行われるそう。
「柴舟」とは、装飾された柴舟を曳行し、夜にはローソクを灯して笛や太鼓で賑わう祭りのことみたいです。
この行事は無形民俗文化財に指定されており地元の保存会によって伝統が守られているそうな。
この立てかけられた超巨大な車輪に惹かれて調べてしまった。大迫力です。
この画像でなんとなく大きさの想像がつくだろうか…マジでデカすぎて恐怖感さえ感じるほど。
それが壁掛けで置いてあるのがまたシュールなのだ。
見上げるほど大きい。箒みたいに壁に立てかけてある。
特段固定されているようにも見えなかった。なんかの拍子で倒れてこないのか少し心配になる。
車輪の面白いところは金属のパーツが組み込まれているところ。
削れ防止だろうか。こんなまじまじ近くで見たことがないから面白い。
いい景色。
これ本物の砲弾なのだろうか…
全く解読できないのが悲しい。
かろうじて読めるのが砲弾についての単語。
その単語(二十八糎榴弾砲?)を調べてみた。
二十八糎榴弾砲(にじゅうはちせんちりゅうだんほう)は、大日本帝国陸軍が使用した大口径の榴弾砲。この砲は日露戦争や第二次世界大戦で使用され、特に要塞攻撃や重火力支援のために用いられていた。
口径は28センチメートル(280ミリメートル)で、砲弾は非常に大きく、強力な破壊力を持っている。代表的な使用例としては、日露戦争における203高地の攻防戦や旅順港の砲撃があります。
長野県には日露戦争の記念碑が多く点在しているのでこれで間違いないと思います。
戦争は過去の出来事かのようによく語られるが、現代でも各地で戦争が起きている。
戦争のない世界はいつ訪れるのだろうか。
謎のドラム缶。
サイボーグ化した樹木。建物に突き刺さるから切られたのだろう。
裏山の様子。迫り来る大自然に圧倒される。
木の高さが尋常ではないのだ。※隣の建物参照。
さて廃線跡に向かうとしよう。
潮神明神社を調べただけで数多くのことが学べた。感謝。
続く